無題
君はいつもそこに居た。手の届かないほど遠い窓枠の向こうに君は座っていた。
* * *
君を初めて見たのは春の頃、迷い込んだ屋敷の庭だった。ふと見上げた2階の窓、強い風にあおられて翻っ
たカーテンの向こうに君は居た。まぶしい日差しに一瞬目を細めて、僕に気づいた君はほほえんだ。
僕はその表情がなんなのか分からなかった。僕が知っているのは人間の嫌悪するような視線と怒号だけだった
から。
「こら!!」
いきなりの怒鳴り声に反射で身をすくませる。声の主は若い男、この屋敷の使用人のようだった。考える時間
などなく僕は後も見ずに駆け出した。
住処にしていた路地裏の寝床にもぐりこんでも、その時見た君の顔が忘れられなかった。
(な、んだ。これ…)
心臓の奥が痛くて痛くて眠れなかった。それがなんなのかわからなかった。
次の日も僕は屋敷へ行った。もう一度君の顔を見たかった。そうすれば、この痛みも消えてくれるんじゃないかと思った。
昨日と同じあの窓の白いレースのカーテンを開けて、君は座っていた。
僕を見て驚いたように目をまるくしたが、すぐにほほえんだ。君がほほえんだ瞬間、消えた痛みはすぐに、何倍にもなって返ってきた。
でも、なぜかその痛みは苦しいものじゃなかった。
なにか、なにか伝えなければと口を開く。
(あ……)
気持ちだけは渦巻いているのに、その気持ちの名前をしらない。君に伝えるための言葉がわからない。
「来てくれて、ありがとう。」
細く今にも空気に溶けてしまいそうに小さな声だった。それでも僕の耳までは確かに届いた。
君の声は僕に届く。でも、
僕の声は君のいる場所まで届くのだろうか?
心臓の痛みは消えはしない。ずきずきと、昨日よりもひどくなっていくばかり。
それから、僕は毎日屋敷へ行った。君はいつも窓辺に居て、晴れた日には何かを待っているかのように遠くをじっと見つめていた。
けれど何をしていてもぼくが近づくと、必ず気配に気づいて君はこちらを見る。時折つぶやきのような言葉を僕へもらす。
でも、僕は何も言えなかった。
僕の声がけして君に届くことはないと知っていたから。
そんな日々を繰り返し、いつか季節は短い夏も秋をも通り過ぎて冬が訪れていた。
そのころには、屋敷を訪れるのが僕の日課になっていた。
その日、屋敷に着いたのは午前中。まだ君の部屋の窓は閉じられていた。
窓が開くのをじっと待つ、もちろん使用人にはけして見つからないように気配を殺して、耳をすませて。
すると、研ぎ澄ました聴覚が屋敷の使用人のとぎれとぎれの会話を拾った。
「お嬢様の部屋の下に毎日いるだろ。」
「ああ、あの赤毛の?」
「人の気配がするとすぐ逃げていくから、気づいたのはつい最近なんだが。」
最初に見つかってからは誰にも見られていないと思っていた。心臓が早鐘を打つ、人に見られていたならもう
ここへは来れないかもしれない。
「俺は追い払おうとしたんだが、お嬢様に止められてしまって…」
「お嬢様はお優しいからなぁ。」
あの時間を大切に思っているのは僕だけじゃないと、君もあの時間を愛しく思っていると思ってもいいのかな。
いつからか、路地の隅でひとりで眠る時間が苦しくなくなっていた。凍えそうに寒い日も暖かい。
なんだか無性に泣きたくて、そんな自分が笑えた。
かすかにちょう番の軋む音がして、見上げると窓を開けた君がいた。
君は今までで一番幸せそうにわらった。
「ありがとう。」
窓辺に立った君。僕の目をまっすぐに見て心底楽しそうにわらう。
「あなたがいてくれてよかった。」
そのまま、君の細い体がぐらりと傾いだ。君の姿が見えなくなる。ティーカップの割れる高い音が響た。
訝しげに部屋へ入ってきたメイドの顔が驚愕へ変わる。甲高い悲鳴。
その冬一番寒い日だった。
屋敷からは、悲痛な顔をした黒い服を着た人間がたくさんと、大きな細長い箱がひとつ出て行った。
列の先頭には君の写真があった。
それが何を意味するのか、僕だって知っていた。
君は、君は、君は―――
通り過ぎようとする列にすがりついた。土に埋めようとする人間に飛びかかった。
君には、土の中なんて似合わない。暗い湿った地下よりも明るくかがやく日差しが似合うのに。なんでこんな
寒い日に、カーテンの閉め切られた暗い部屋でいってしまったのか。
知っている、知っている――― 本当は、君はカーテン越しの日差しよりも外の満遍なくふりそそぐ日差しの
ほうがずっと似合う。
列のうちの一人に蹴り倒されて、僕はそのまま気を失った。
目が覚めたときには、真新しい土の山と、滑稽なくらい仰々しい墓標だけがあった。
僕は土山に寄り添って横になった。冷たい風がどんどん体温を奪っていくのが分かる。
強烈な眠気におそわれて、すなおにまぶたを閉じた。遠くなる意識の中で思う。
もし、願うことが許されるならば。次にうまれてくるときは君といっしょがいい―――
前日の寒さが嘘のように晴れ渡った小春日和、街はずれの小さな墓地を幼い女の子とその母親が歩いていた。
女の子の手には墓地までの道端で摘んできた野の花の束がしっかりとにぎられている。
「おかーさんっ、あのおはかとってもきれいね!」
「ええ、そうね…」
墓地のどの墓よりも目を引く新しい墓標が、つい2、3日前に命を落とした地元の名士の一人娘のものである
ことは街中が知れわたっていた。
幼い頃から病を患い、ほとんど屋敷の外に出ることもなく亡くなった少女を、可哀想に思わない人はいない。
「ねぇ、おかあさんみてー。わんこがねてるよぉ。」
仰々しい墓標の陰の土山に、寄り添うように横たわる犬を見つけて女の子は声をあげた。
「まあ、ほんと、このお墓のひとがご主人様だったのかもしれないわねぇ。」
「おともだちかもよぉ?」
「そうねぇ、そうかもしれないわね。わんちゃんこんなに幸せそうな顔してるんだもの。」
女の子は自分が抱えていた手作りの花束から花を一本ぬきとった。
「あら、いいの?おばあさまにあげるんでしょ?」
「いいの。」
女の子は土山に花を添える。
「このこたちにもおはなあげたかったの。」
親子は言葉を交わしながら遠ざかっていく。
そえられた黄色い野の花と、犬の茶色い毛並みががかすかな日差しにかがやいた。
――― Fin
* * *
君を初めて見たのは春の頃、迷い込んだ屋敷の庭だった。ふと見上げた2階の窓、強い風にあおられて翻っ
たカーテンの向こうに君は居た。まぶしい日差しに一瞬目を細めて、僕に気づいた君はほほえんだ。
僕はその表情がなんなのか分からなかった。僕が知っているのは人間の嫌悪するような視線と怒号だけだった
から。
「こら!!」
いきなりの怒鳴り声に反射で身をすくませる。声の主は若い男、この屋敷の使用人のようだった。考える時間
などなく僕は後も見ずに駆け出した。
住処にしていた路地裏の寝床にもぐりこんでも、その時見た君の顔が忘れられなかった。
(な、んだ。これ…)
心臓の奥が痛くて痛くて眠れなかった。それがなんなのかわからなかった。
次の日も僕は屋敷へ行った。もう一度君の顔を見たかった。そうすれば、この痛みも消えてくれるんじゃないかと思った。
昨日と同じあの窓の白いレースのカーテンを開けて、君は座っていた。
僕を見て驚いたように目をまるくしたが、すぐにほほえんだ。君がほほえんだ瞬間、消えた痛みはすぐに、何倍にもなって返ってきた。
でも、なぜかその痛みは苦しいものじゃなかった。
なにか、なにか伝えなければと口を開く。
(あ……)
気持ちだけは渦巻いているのに、その気持ちの名前をしらない。君に伝えるための言葉がわからない。
「来てくれて、ありがとう。」
細く今にも空気に溶けてしまいそうに小さな声だった。それでも僕の耳までは確かに届いた。
君の声は僕に届く。でも、
僕の声は君のいる場所まで届くのだろうか?
心臓の痛みは消えはしない。ずきずきと、昨日よりもひどくなっていくばかり。
それから、僕は毎日屋敷へ行った。君はいつも窓辺に居て、晴れた日には何かを待っているかのように遠くをじっと見つめていた。
けれど何をしていてもぼくが近づくと、必ず気配に気づいて君はこちらを見る。時折つぶやきのような言葉を僕へもらす。
でも、僕は何も言えなかった。
僕の声がけして君に届くことはないと知っていたから。
そんな日々を繰り返し、いつか季節は短い夏も秋をも通り過ぎて冬が訪れていた。
そのころには、屋敷を訪れるのが僕の日課になっていた。
その日、屋敷に着いたのは午前中。まだ君の部屋の窓は閉じられていた。
窓が開くのをじっと待つ、もちろん使用人にはけして見つからないように気配を殺して、耳をすませて。
すると、研ぎ澄ました聴覚が屋敷の使用人のとぎれとぎれの会話を拾った。
「お嬢様の部屋の下に毎日いるだろ。」
「ああ、あの赤毛の?」
「人の気配がするとすぐ逃げていくから、気づいたのはつい最近なんだが。」
最初に見つかってからは誰にも見られていないと思っていた。心臓が早鐘を打つ、人に見られていたならもう
ここへは来れないかもしれない。
「俺は追い払おうとしたんだが、お嬢様に止められてしまって…」
「お嬢様はお優しいからなぁ。」
あの時間を大切に思っているのは僕だけじゃないと、君もあの時間を愛しく思っていると思ってもいいのかな。
いつからか、路地の隅でひとりで眠る時間が苦しくなくなっていた。凍えそうに寒い日も暖かい。
なんだか無性に泣きたくて、そんな自分が笑えた。
かすかにちょう番の軋む音がして、見上げると窓を開けた君がいた。
君は今までで一番幸せそうにわらった。
「ありがとう。」
窓辺に立った君。僕の目をまっすぐに見て心底楽しそうにわらう。
「あなたがいてくれてよかった。」
そのまま、君の細い体がぐらりと傾いだ。君の姿が見えなくなる。ティーカップの割れる高い音が響た。
訝しげに部屋へ入ってきたメイドの顔が驚愕へ変わる。甲高い悲鳴。
その冬一番寒い日だった。
屋敷からは、悲痛な顔をした黒い服を着た人間がたくさんと、大きな細長い箱がひとつ出て行った。
列の先頭には君の写真があった。
それが何を意味するのか、僕だって知っていた。
君は、君は、君は―――
通り過ぎようとする列にすがりついた。土に埋めようとする人間に飛びかかった。
君には、土の中なんて似合わない。暗い湿った地下よりも明るくかがやく日差しが似合うのに。なんでこんな
寒い日に、カーテンの閉め切られた暗い部屋でいってしまったのか。
知っている、知っている――― 本当は、君はカーテン越しの日差しよりも外の満遍なくふりそそぐ日差しの
ほうがずっと似合う。
列のうちの一人に蹴り倒されて、僕はそのまま気を失った。
目が覚めたときには、真新しい土の山と、滑稽なくらい仰々しい墓標だけがあった。
僕は土山に寄り添って横になった。冷たい風がどんどん体温を奪っていくのが分かる。
強烈な眠気におそわれて、すなおにまぶたを閉じた。遠くなる意識の中で思う。
もし、願うことが許されるならば。次にうまれてくるときは君といっしょがいい―――
前日の寒さが嘘のように晴れ渡った小春日和、街はずれの小さな墓地を幼い女の子とその母親が歩いていた。
女の子の手には墓地までの道端で摘んできた野の花の束がしっかりとにぎられている。
「おかーさんっ、あのおはかとってもきれいね!」
「ええ、そうね…」
墓地のどの墓よりも目を引く新しい墓標が、つい2、3日前に命を落とした地元の名士の一人娘のものである
ことは街中が知れわたっていた。
幼い頃から病を患い、ほとんど屋敷の外に出ることもなく亡くなった少女を、可哀想に思わない人はいない。
「ねぇ、おかあさんみてー。わんこがねてるよぉ。」
仰々しい墓標の陰の土山に、寄り添うように横たわる犬を見つけて女の子は声をあげた。
「まあ、ほんと、このお墓のひとがご主人様だったのかもしれないわねぇ。」
「おともだちかもよぉ?」
「そうねぇ、そうかもしれないわね。わんちゃんこんなに幸せそうな顔してるんだもの。」
女の子は自分が抱えていた手作りの花束から花を一本ぬきとった。
「あら、いいの?おばあさまにあげるんでしょ?」
「いいの。」
女の子は土山に花を添える。
「このこたちにもおはなあげたかったの。」
親子は言葉を交わしながら遠ざかっていく。
そえられた黄色い野の花と、犬の茶色い毛並みががかすかな日差しにかがやいた。
――― Fin
スポンサーサイト